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特別企画ができるまで2 

こんにちは、ノラドラです。

おかげさまで「お盆特別企画 父の生い立ち」、予想以上に反響があり、最終話にはアクセス数が最高になり、その後もアクセス数が徐々に伸びてきているような気がします。
(私はこういう話は嫌がられると思っていました…)

もしかしたら、ご家族の方やお知り合いの方に紹介してくれたりしたのかな?
本当にありがとうございます。


もし、まだご覧になっていない方がおられましたら、ぜひご覧になってくださいね。
もう二度と書けない記録です。

<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州1>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州2>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州3>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州4>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州5 完結編>






さて、「特別企画ができるまで」の続きです。

貴重な資料が手に入り、やはり作業はぐっと進みました。
目で見ると本当にわかりやすいですものね。



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父はやはりこの満州の写真集を読みふけっていました。



そうこうしているうちに




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母がお仏壇の引き出しや押し入れの中から、古い写真や手紙を出してきてくれました。
(資料に関しては母の協力が大!)







あまりにも懐かしい資料がそろったので、ついつい見入ってしまうノラ家…。





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やっぱり涙なしには読めませんでした。


ご先祖様の写真や手紙を見るということは、生まれてからの記憶をたどるのとまた違い、
なぜ今じぶんがここにいるのかということをしみじみと考えさせるし
先祖の願いとか「血」を流れる記憶を
思い出すという不思議な感覚です。




ついつい見入ってしまってなかなか進まなかったけど

ようやく実際に絵を描く作業に突入!!





でも、


うう、中国大陸の形がわからない!



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マーくんには地図を借り、(マーくん、夏休みの宿題中ね)





昔の人ってどんなかっこうしてたんや…?




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両親にチェックを受け









「お盆特別企画」は家族の全面的協力を得て進んでいったのでした。








期間中、一番大変だったのは4日目の夜。


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3日目の話をアップしてから東京に行き、宿泊。
次の日はある勉強会に出席して戻ってきたのが夜9時半。

もともと夏バテ気味なところへ、ホテルでは一睡もできなかったので、
新幹線の中で下絵を描いていたら、だんだん気持ち悪くなってきて
ご飯も食べていなかったんです。



今日の更新…無理かも…
もうだめっす…




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おばあちゃんとおじさんたち(父のお母さんと弟たち)の命日に終わらせたい…
でも、12時までの更新は絶対に無理。


このとき、強く励ましてくれたのは姉だった。


「いいやん、今日の日付に間に合わなくても。頑張れ!!」


もし姉の励ましがなかったら、この日は本当にしんどかったから
絶対にできませんでした。

それに、一日に2回更新すると、これほどの労力をかけているだけに、
1回分のポイントしか入らないのは本当はすごく勿体ないことなんだけど
この際、度外視!



そうと決まれば、着替えもせず、ご飯も食べず頑張って一気に絵を作りはじめました。




夜も更けて、重かった胃も治り、ちょっとお腹がすいてきた頃










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お姉ちゃんがおにぎりを握ってきてくれました!!
(ブルーベリーソースをかけたヨーグルトも持ってきてくれました。)


実は、ノラ家では姉はあまりにも忙しいので言ってみれば「男の人」のような立場にあり、

お姉ちゃんにお世話してもらうって、ものすごく珍しいことだったので、ドラ、感激。







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その後も姉はそばにすわって応援。

「お姉ちゃん、仕事大変なんだから寝てよ。」と何度も言ったのですが

「大丈夫。できたのを見たいから。」って…。


ふと途中で横を見ると




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疲れ切った顔でうつらうつらしていた姉の目は

まるで麦のよう




疲れているのにありがとう。


ようやく2時過ぎに更新!!できた~!!


それからお風呂に入ってヨガをして寝たのは4時でした。
(次の日もちゃんと早起きしたよ。)


もともと、家族は私のブログに協力的だったわけではなく、
長い時間PCを触っていると「指導」がくるのですが、
このお盆特別企画だけは、別でした。

それは、ご先祖様の供養にもなると思ったし、
見てくださっているみなさんの応援コメントを家族も読んでいたから
全面的に協力してくれたんです



そんなこんなで、このお盆特別企画は
家族の協力と、みなさんの温かい応援のおかげでできたのでした。


本当に本当ににありがとう!!!


ー完ー



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なんと、今日のお昼に、雲の上の人のような きんととさんのブログで私のブログが紹介されていました。恐縮やら感激やら。
きんととさん、ありがとうございました。



(あとがき)

実はですね、早く亡くなられた父のお父さんとお母さんですが……

姉は父のお父さんにそっくりで、私は父のお母さんにそっくりなのです。

(最近は姉が父のお母さんに背格好も雰囲気も似てきましたが。)

子供二人の顔を見ると両親の顔があったので父はびっくりしたんだとか。


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[ 2008/08/15 13:52 ] 父の生い立ち | TB(0) | CM(12)

特別企画ができるまで 

ただいまfc2で画像の閲覧障害が起こっているそうです。もし画像がご覧になれないようでしたら申し訳ありません。また時間をおいてお越しいただければ幸いです。




こんにちは、ノラドラです。

「ノラ家の日常」は、一昨日まで連続5日間、「お盆特別企画」で「非日常」になっていました。

かなり残酷なお話でしたが、みなさんが真正面から受け止めてくださって、私も感動しましたし、一緒にいろいろなことを考えさせていただけました。

また、この企画を通して、家族の絆や何事もない穏やかな日々のありがたみなど、大切なを思い出すことができ、本当によかったと思っています。

応援して下さったみなさんに心から感謝を申し上げたいと思います。
たくさんの力をいただきました。本当にありがとうございました。



もし、まだご覧になっていない方がおられましたら、ぜひご覧になってくださいね。

もう二度と書けない記録です。

<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州1>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州2>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州3>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州4>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州5 完結編>






さて、今後はいつものほのぼ路線に戻りますが、その前に
せっかくお盆なので2日間は少し余韻を残して、今回の裏話をちょこっと書きたいと思います。



この特別企画を始めるにあたって父への取材から始まりました。
atogaki1.jpg

今までは漠然と聞いていたのでノートに書きとめていくという作業は初めてでした。ブログには載せなかったこともたくさん書きとめられました。

でも、この作業がなかなか大変で…

聞いたことがない地名を耳で聞くだけでは、
いちいち「それ、どんな字?」って感じです。


だいたい、耳慣れない地名がいくつもいくつも出てきて、
父が転校をして国民学校を3つも行っているのでややこしいのなんの。




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なかなか飲み込めなくて、父もイライラ、私もストレス。

それ以外にもあまりの無知さにこの期間、結構しかられましたよ…。

(たとえば、

「お父さん、引き揚げてから学校ではランドセルやった?」

「あほ、何もかもなくして帰ってきてるのにそんなもんあるか。ふろしきじゃ!」

とか、

「お父さん、戦中戦後って、色もののシャツ、あった?」

「あほ、戦時中に色ものなんかあるか!みんな白じゃ。」

とか。

登場人物の描きわけ上、違う色のシャツに塗りたいわけですよ、こっちは。

というわけで、みんなシャツに色を塗っていないのは手抜きではありません。
(実は時間がなくて手抜きもあったりして…。)

まあ、それはいいとして、
最初は言葉だけを音声で聞いていたので遅遅として進まなかったわけ。


そこで、

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クローゼットをあけて満州の本を探します。














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母が執念で探してくれたのは、これ。
父と母も長い間、見ていなかったという満州の本です。

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国書刊行会の「決定版写真集 望郷 満州」と「懐かしの満州鉄道」
箱に入った非常に立派で貴重な本でした。

これらは、一緒に満州から引き揚げ、父の親代わりとなってくれた一番上の叔父さんが
晩年、

「おまえがもっているのが一番いいだろう。」

とくださったのだとか。

叔父さんの直筆や貼りつけた満鉄の新聞記事が残っており叔父さんの形見でもあるのです。

(母方の叔父さんたちはもう亡くなられました。一番下の叔母さんのみお元気で、当時の満州を知るのは、もうその叔母さんと父だけになってしまいました。)





この本には今回載せた鉄道の地図が載っており、
地名と場所の確認にとても役立ちました。
(というか、これがなかったら特別企画はできなかったと思います)
写真もいっぱいあったしね。






これで、一気に進むぞ!




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「ジャムス、ジャムス…」(←北満の地名ね)











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15分経過。
なかなか探せない父…  (字が小さいしね)



進まんぞぉ~…

ふぁ~あ…。


って感じでした。

ーあしたも続くー


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[ 2008/08/14 12:57 ] 父の生い立ち | TB(0) | CM(13)

<お盆特別企画>完結編 父の生い立ち~鎮魂の満州~5 

こんばんは。ノラ家です。
「ノラ家の日常」はただいま、「お盆特別企画」として、ほのぼの路線を離れ、

「ノラ家の日常」になっています。

愉快な話ではありませんが、ノラ家にとってとても大切なお話ですので、せっかくのご縁で訪れてくださった皆様には少しお付き合いいただければ幸いです。

今日初めて訪れて下さった方は、どうぞ
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州1>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州2>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州3>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州4>からご覧になってください。

また、これまで読んでくださり、温かい応援をいただいた皆さん、本当にありがとうございました。
5日間にわたったお盆特別企画もついに今夜完結です。






<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州~完結編>


昭和29年、ついに北満の母親と弟たちの消息を知らせる一通の手紙が遠く離れた東北から届きました。

これは、父のお母さんが、同江(どうこう)で同じ宿舎に住んでいたこの方に、「自分たちにもしものことがあったら、内地の親族に知らせてほしい」と頼み、住所を交換していたからではないかと思われます。

この方のご家族と、父の家族は同じ集合住宅に住んでおられたそうで、子供同士が同級生だったのでよく遊んだそうです(父のすぐ下の弟とその方の息子さんが同級生でした)。


南満から引き揚げた父らの一行も草河口(そうかこう)から山に入るときに、安東(あんとう)から来た人と合流し20人くらいの集団で歩いた際、お互いにもしものことがあったら内地の本籍地に連絡してほしいと住所を交換しておいたそうです。





8月9日、ソ連が満州国境より侵攻したという知らせに、北満の日本人は兵隊さんの護送の中、南へ南へと逃げました。同江にいた父のお母さんと弟たちもこの行軍に加わりました。


この時、ノラ父のお母さんは、幼い子供を二人かかえ、自身は身重、それも臨月を迎えていました。

まさに出産のために病院に入っていたところ、ソ連の侵攻があり十分な準備もできずに逃げなければいけなかったようです。


頼りにしていた夫は、警察官だったため軍隊と行動を共にしており、任務のため別の日本人集落の護送にあたっていました。


お母さんはどれほど心細く情けなかったことでしょう。そしてお父さんもどれほど自分の家族が気がかりだったことかと思います。



さて、最初に着いた昭和29年の手紙では、母親と弟たちは、富錦(ふうきん)までは来ていたということを伝えていましたが、はっきりしたことは言わず、「その後は行方不明」とにごしていたそうです。



その後、父は知りたいことを手紙で書いて送りました。

その質問に対する返事として送られてきた昭和30年1月1日付の手紙にはこのように書かれていました。

それでは、全文を掲載します。







拝啓

過日はお手紙ありがとうございました。
お尋ねの件、早速申し上げます。


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(1)20年8月9日、私たちは同江を出発しまして、翌日、10日午後、富錦(ふうきん)につきました。
富錦街から佳木斯(ジャムス)に向かう途中、馬車が五、六十台も続いてあなたのお母様、弟様たちの乗られた馬車が私たちの馬車と後になり先になり、顔を合わせていました。
(同江では同じ住宅でしたから存じていました。)





馬車2

満州の馬車は2輪です。馬車と言っても立派な馬車ではなく、板だけの6、7人が乗れる程度の馬車でした。



連日連夜の土砂降りの雨、馬車は壊れ、馬は疲れ、

5歳以下の子供たちのみ馬車に乗せ、皆歩くよりほかなく、泥道は

膝までも深く、弱い者は次第に落伍していきました。








mansyu5-1.jpg

多くの人は、当時、防空頭巾をかぶっていましたが、病院に行っておられた故か、

なにもかぶらずに髪も乱れて、奥様も、お産前の御身、大分お苦しそうでした。

雨に濡れた苦しそうなお母様のお顔が今でも目に浮かびます。

二人の子供さんはたしか頭巾をかぶっており、おとなしくお母様のそばに座っておりました。




その夜は12時ごろでしたが、満人の家に泊まり(お母様たちとは家は別でした)、火をたき、着たものを乾かしました。




翌朝11日は早く出発、雨の中を馬車が先になり、後になり、ときどき見受けました。


前日より馬車は数少なく、長男のみ乗せ私は次男(当時9か月)を背に歩きました。

次第に、落伍者がでました。



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夜、真っ暗やみ、泥のぬかるみに靴は取られ、素足で夜、集賢鎮の警察署につき、やっと夕食をいただきました。





(2)8月12日、夜9時ごろ、富錦県集賢鎮(しゅうけんちん)警察署に着いたとき、お母様は見えませず、護送に当たった兵隊さん(名前がわからず申し訳ありません)に聞くと、ノラ様のお母様はお産のため山の中に入り、お産が重くて死亡されたのを見届けたと言われました。


二人の子供さんもお母様とともに馬車から降りられたと思いますが
その後のことはわかりません。





たぶん子供さんたちも共に兵隊に殺されたのではないかと…これは私の想像なのですが。
その兵隊さんも集賢鎮にも着かず、内地にも帰られていません。



同江を出発する際お産3日目の奥さんも殺され、子供さんも(4歳くらい)も同じ運命でした。
その兵隊さんも集賢鎮にも着かず、行方不明で、生死がわかりません。




富延崗(ふうえんこう)ではかなりたくさんの子供さんたちが兵隊さんとかその他の方に頼んで殺されたと後で聞きましたが、

「行軍するかそれより死んだ方がよいか」と母に尋ねられ
「死んだ方がよい」と答えた子供たちは次々と亡くなったそうです。


でもそれは、最悪の場合なので、弟さんたちはあるいは中国人の手に育てられて
おられるかもしれません。




数キロの後に、ソ連の戦車が迫ったと聞き、空からは飛行機に追われ、
日に夜をついでの行軍、 夜は不気味な探照燈の光。

雨でびっしょり濡れた衣服、着替えもなく食物もなく、夢中で歩きましたが
私も二人子供を連れて苦労しました。
次男は十月に新京で肺炎で亡くなりました。なんの手当てもできずに…。


はっきりしたことをお知らせできませんで、非常に残念でなりません。
乱筆乱文お許し下さいませ。

祖母上様、叔父上様によろしくお伝えくださいませ。
                         
                                   敬具




なんという残酷な知らせでしょう。

この方の、後の手紙にもこういうくだりがあります。


「昭和28年、仙台市の未帰還者の合同調査があり、行った際、やはり元、同江におりました奥様のお話では、私たちより遅れ、依蘭の方へ行軍された際、10歳以下の子供さんはみな、首をはねて殺されたとのことでした。

その他、満州では多いのですが、湿地帯の深い沼の中に赤ん坊を沈めたり、川を渡る途中、川の中に小さい子供はみな流してきたとか。

その後、避難民の収容所に着いて落ち着くと子供の泣く声が耳について気が狂いそうだと話していたそうです。

まったく、平和なときには考えられない地獄絵図でした。」






ノラ父のお父さんは、シベリアから帰ってきたあと自分が護送した日本人の行軍の様子を父に語っていたそうです。

やはり、弱い子供は歩けなくなり、母親が「このまま歩くのと天国に行くのではどちらがよいか」と聞くと、子供は「天国にいくほうがいい」と答えました。

すると母親は「天国はおいしいものも好きなだけ食べられて、とても良いところだから、必ずあとから行きますから先に行って待っていなさい」というと、子供は納得したように、正座して両手を合掌し、兵隊さんに首を切って殺してもらったそうです。





この方の手紙はこのように続いていました。



「避難民の中で、お産のときは子供さんをなくすか、母子ともになくなり、本当に気の毒でした。
私たちは二十一年九月に帰りました。

同江在住の帰還者名簿ができないのでわかりませんが、同江に日本人はだいたい四百名くらいおったように聞きましたが、内地に帰った人はその三分の一くらい、正確に死亡がわかった人は少なく、大部分行方不明なのです。」






こうして、ノラ父のお母さんと弟たちは、富錦(ふうきん)までは来ていたことは確かですが
富錦から集賢鎮(しゅうけんちん)の間の荒野で果てたようです。




おそらくは、長い間馬車に揺られて具合が悪くなり、あるいは途中産気づき、
もう逃げられないと悟って、兵隊さんと山の中に入ったのでしょう。

死が迫る中胎動する新しい命…なんという皮肉!


実は松花江に沿った一帯は、背丈ほどの草地が広がる湿地帯で、中国人の小高い墳墓があるばかりで山はないそうです。

「山の中に入る」ということは、自決を意味しています。



これはノラ家の解釈ですが、

当時の感覚からすると、
子供を残して辛い思いをさせるよりも自分と一緒に死んだ方がよいと考えるのも自然な感情で、

ソ連兵に殺されるよりは、腕に抱きしめて看取りたいと思うのが母の心情ではなかったかと考えています。





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おそらくは二人の死を見届けてから
自分は兵隊さんに首を切ってもらったのだとノラ父は考えています。


でも、お母さんはきっと、最後に
長男(ノラ父)は自分たちと一緒にいなくてよかった、
南満の実家に託して本当によかったと思ったに違いありません。







そして、死の前にきっとこう念じたはずです。







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「どうか、あの子だけでもお守りください!!!!」





母の死の直前の祈りが自分を災いから守り、なんとか元気に命を永らえることができているのだと父は信じています。





このように肉親と早く別れなければならなかった父ですが、その後母と出会い、家庭を持つことができました。



新婚の頃、父は食事のときに言ったそうです。


「これが 幸せっていうものなんやね。」

と。







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その後、かわいい子供(笑)にも恵まれて

今は退職し大将の席で悠々と好きな本を読んでいます。


食いしん坊で「くれくれくまちゃん」なのも、
病気になると世話がかかるのも
子供のころ早く両親と別れ、親戚の家で年の離れた従妹たちと育ったので十分に甘えることができず、自分のことを一番に考えてくれる人がいなかったせいなのでしょう。


残された余生、父が最後に振り返った時に
良い人生だったと思えるように、周りの者は大切にしてあげないといけません。


さて、お気づきだと思いますが、この手紙からすると、父のお母さんと弟たちの命日は
8月12日、今日なのです。
ノラ家では全員そろってお仏壇の前で供養をしたいと思います。




5夜連続のお盆特別企画、いかがでしたでしょうか?


とても残酷で悲惨なお話でした。
私はこの手紙を中学生の時に読んでもらい、とても衝撃を受けたことを覚えています。


戦争というと、このような残酷な話はいくらでもあります。
悲惨さを伝えることももちろん大切ですが、ノラ家は、まずはじめに
苦労をされたすべての方々に感謝し、哀悼の誠をささげたいと思っています。


そのためには、

過去を忌み嫌うのでもなく、断罪し切り捨てるのでもなく、

愛おしむ気持ちで、すべてをひっくるめて受けとめ、

「ご苦労様でした。ありがとうございました。」と

お墓の前で石を一つ積み上げるような敬虔な気持ちがぜひとも必要なのではないかと思うのです。


「誠」とは、後世の私たちが天に恥じない生き方をし、よりよい日本をつくっていくということではないかと思っています。
自分にできることを自分のできる範囲で。








重苦しい話を長い間読んで下さり本当にありがとうございました。


ー完ー


五日間、応援ありがとうございました。
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[ 2008/08/12 21:00 ] 父の生い立ち | TB(0) | CM(19)

<お盆特別企画>父の生い立ち ~鎮魂の満州~4 

こんにちは。ノラドラです。
「ノラ家」はただいま「お盆特別企画」4日目です。

いつものほのぼの路線に戻るまで、あと1日。完結編まであと1日です。
ノラ家にとってはとても大切なお話ですので、

せっかくのご縁で訪れてくださった皆様には少しお付き合いいただければ幸いです。

今日初めて訪れて下さった方は、どうぞ
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州1>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州2>
<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州3>からご覧になってください。





<ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州~4 孤独の日々>




日本に帰ってからも、父の家族の消息はわかりませんでした。
ソ連との国境近くにいた者は助からなかったということは推測できました。
でも、父は待ちました。祖母と一番上の叔父さんの家で厄介になりながら。

必ず帰ってきてくれると信じて。

でも、やっと安全な内地に戻ったにもかかわらず、
待つ父の日常も穏やかなものではなかったのです。


父は3年生の2学期から学校に行っていなかったので、本来ならその学年をもう一度やり直さなければならなかったところでしたが、田舎ということもあり、4年生の2学期の途中から
新しい学校に通いはじめました。




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引き揚げ者で転校生、よそ者の父は目立っていました。










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上級生が、やんちゃな子をけしかけて

「おい、あいつ(ノラチチ)と喧嘩したら勝てるか?」と聞きます。

その子は
「うん、勝てるよ」と応えると

「じゃあ、証拠を見せろ。」











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仕掛けられた喧嘩、口だけなら相手にしない父も、いきなり殴りに来たら応戦するしかありませんでした。

満州では喧嘩のとき、顔を殴らない、殴っても平手、という暗黙のルールがあったのですが、
こちらの田舎では、いきなり目や鼻をこぶしで殴ってくるというもので、
なんと野蛮だろうと父はびっくりしたそうです。









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そのため、父が柔道や相撲の技で相手を地面に倒し、押さえつけて勝利するまでには
こちらも相当のダメージを負ったそうです。










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上級生がありとあらゆるやんちゃ者に喧嘩をたきつけ、
それに応戦するという、ケンカ三昧の日々が続きました。









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父は成長が早く、身体が大きくて、1学年上のものになら勝つほど強かったので
イジメにはならなかったそうですが、もし、ケンカが弱かったら
大変なことになっていただろうといいます。

結局、4年生の2学期から、序列が決まり父が最終的に勝者になる5年生の
終わりまで修羅の日々が続きました。

実に不愉快な日々で、父は孤独だったそうです。







そんなある日




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なんと、消息不明だったお父さんが帰って来たのです!

お父さんはソ連の捕虜になり、シベリア収容所に入っていたそうです。

昭和22年10月のことでした。

シベリア抑留者の過酷さは、みなさんも聞いたことがあるでしょうか。
60万人の抑留者のうち、公的に発表されているだけでも1割、6万の日本人が亡くなっています。
(実際にはもっと多いそうですが。)

最後の抑留者が解放されたのは昭和31、2年頃。すでに日本が復興を遂げていた頃も、
戦争は終わっていなかったことになります。



父のお父さんの帰還はシベリア抑留者の中では早いほうでした。

しかし、栄養失調でやつれた姿が、シベリアでの厳しい生活を物語っていました。



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お父さんは妻と二人の子供が戻ってきていないことにやはりショックをうけたようでした。

日本に帰れば妻子に会えるかもしれないという一縷の望みが、シベリアの過酷な生活を耐える支えになっていたでしょうから…。




父のお父さんは三重県出身の人でしたが、しばらく療養した後、
大阪の兄の所に厄介になり、働くことになりました。

ノラ父も、お父さんと部屋を借りて一緒に大阪で暮らすという選択肢もあったのですが、お父さんは働かなければならず、女手もないことから、やはりこのままおじさんの家にとどまるほうがよいという結論になり、また親子が離れ離れに暮らすことになりました。(そしてお父さんは仕送りを送ってくれていたようです)




やがて、父は中学生になりました。


この頃、叔父さん夫妻に赤ちゃんが生まれたのですが、かわいそうなことに奥さんは出産間もなく、病気で亡くなってしまいました。

今のようにミルクがある時代ではなかったので、近所に「もらい乳」にまわらなければなりませんでした。

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思春期の父にとって、赤ん坊をおぶい紐で背中にくくりつけられて、近所をまわることは
同級生たちの手前、大変恥ずかしいことだったと今も述懐しています。








また






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叔父さんは叔父さんで妻を亡くし、家族の生活を支えるため大変だったと思いますが、
当時の父は家の中で、疎外感を感じていたそうです。













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そして





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お父さんは最後まで妻子の消息を知らないままでした。



翌29年、

母親たちの消息を知らせる一通の手紙が届いたのです。



ーつづくー


みなさんの応援が描くエネルギーになっています。
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帰りが遅かったので日付は変わってしまったけど、夜のうちに作ったよ~…ゼイゼイ…。
これで、一応4夜連続(笑)。





[ 2008/08/12 02:10 ] 父の生い立ち | TB(0) | CM(7)

<お盆特別企画>ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州~3 

お盆特別企画 第三弾!!


こんにちは。ドラです。
「ノラ家」はただいま「お盆特別企画」3日目です。

少しの間、日常を離れ、ノラ父の秘密について語っています。

いつものほのぼの路線に戻るまで、あと2日間ほどかかりますが、ノラ家にとってはとても大切なお話ですので、

せっかくのご縁で訪れてくださった皆様にはよろしければ少しお付き合いいただければ幸いです。

今日初めて訪れて下さった方は、どうぞ
ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州1
ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州2>からご覧になってください。




<お盆特別企画>ノラ父の生い立ち ~鎮魂の満州~3 憧れの内地へ!?


さて、昨日の記事ではよくわからかなったと思いますので補足させていただきますと、

要は、父らの一行は、日本人を返さない方針の八路軍側から、日本人を返す方針の国民政府の側へやってきたのです。

国民政府の側の宮原(みやのはら)まで行けば、帰れるぞという話があったそうです。

宮原(みやのはら)の収容所は、国民政府が治安維持のために運営している収容所でした。

ここでのコレラ流行がようやくおさまり、父らの一行は、夏の終わりに出発を許されました。



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そこからは鉄道がつながっているので、汽車で奉天(ほうてん)へ。
そこで北奉天の収容所に入り、半月ほど留め置かれました。



その後、満州の大動脈である連京線(大連ー新京をむすぶ線)を汽車で下り、
錦州(きんしゅう)というところへ。これはもう大連のすぐ近くです。

錦州の収容所には1週間近く入ったそうですが、これは、ほとんど帰還船の順番待ちのような期間で

「ここまで来たら帰れるぞ」

という希望が出てきたそうです。

それから大連の近くのコロ島というところから

引き揚げ船「新興丸」(3000tクラスの船)に乗りました。

そこから4昼夜か5昼夜で、博多に到着

(引き揚げ船は博多か佐世保、舞鶴、新潟などに到着したそうです。)

9月10日頃のことでした。


でも、すぐに船からは降りられるわけではありません。

日本に病気を持ち込まれないために「検疫」があり、
検査のために1泊か2泊、留め置かれた記憶があるそうです。

そして
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ようやく船を降りたときにDDTをかけまくられたのが印象的だったそうです。


また、情報収集のために後ろに風景が映っている写真はすべて提出させられました。
父の一家はこのことを噂で聞いていたので、先に風景を切っておいたので没収されずにすんだそうです。

博多駅につくと、帝国大学の学生さんたちがボランティアで引き揚げ者に対して
「引き揚げ、お疲れ様でした」と湯茶のサービスをしてくれたそうです。



ところで、満州生まれの父にとっては初めての内地でしたが
その印象は…。

汽車がマッチ箱のように小さいなあ…。

くすんだねずみ色の瓦と、みすぼらしい木造の家。

なんとあかぬけない街だろう…


と思ったそうです。

「内地、内地」と憧れをもって聞かされていたので
「なあんだ、こんなものか」と子供はみんな思ったそうです。


こうして、父の一族は、博多から、汽車に乗りました。



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彼岸花 彼岸花2



途中、線路のわきに、田んぼのあぜ道に真っ赤な花がたくさん咲いており、

それがどの土地にいっても、どこまでも続いていたことが子供心に強く印象に残ったそうです。


「この赤い花は何の花だろうな。満州にはなかったけれど…」


ーそれは、彼岸花。


父は彼岸花の季節になると、いつもこの引き揚げのことを思い出すそうです。





大阪で叔母夫婦と別れ(叔母夫婦は夫の実家の新潟へ)、

父らが、和歌山の西牟婁郡(当時)に残していた祖母の家に到着したのはS21年9月18日。

(ほとんどの人は満州に渡るときに家を売るなどしたため、内地に帰ってからは親戚を頼るしかなかったそうですが、祖母や叔父たちは、よく内地の家を残していたものだとつくづく思ったそうです)。



鶏冠山を出てから4か月以上の流浪の旅が終わりました








それでも、北満の引き揚げの苦労に比べれば、南満州の引き揚げ者はまだまだマシでした。

それも、国境にいたお母さんや弟たちの苦しみに比べれば
……。。。。








こうして、父は祖母と叔父たちの家で過ごし、家族の帰りを待ちました。






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お父さん、お母さん、弟たち… みんなどうしているんだろうか…

早く帰ってこないかな…



もうこの頃には、大人たちは、いろいろな人の情報から、北満の国境地帯にいたお母さんと弟たちはダメだったのではないか…という推測ができていました。



父の祖母は、死ぬまで悔いていたことがあるそうです。



実は、終戦前、ノラ父のお母さんは4人目の子供を身ごもっていました。

それで、実家の母に、「実家で出産したい、戻りたい」という趣旨を伝える

手紙を書いてきていたそうです。

でも、鶏冠山の実家には、すぐ下の弟のお嫁さんも出産を控えていました。



昔の人は、

同じ家で二つの出産があると、勝ち負けがつく、片方にはよくないことが起こると信じていました。

だから、その家で妊婦さんがいると、ネコでも(身ごもっていると)よその家にもらってもらったりしたそうです。
(あ、いけない、ノラ家もネコだったわ!)



そういうわけで、娘に実家に戻ることを許さなかったのだそうです。

もし、ノラ父のお母さんが南満州の実家にさえ戻ってきていれば、きっと一緒に助かったはずでした…

これが母親として生涯消えることのない後悔の念となって残ったそうです。

悲しいことですね。



ーつづくー


みなさんの応援が描くエネルギーになっています。
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いつも最後までありがとうございます。
今日はイラストは少なめで、わりと穏やかなお話でした。

次の話では、お父さんの消息がわかります。

お母さんの消息については最終日・完結編です。これは必見です。
もう少しお付き合いくださいね。



今日は出かけます。帰ってくるのは明日です。
その間みなさんのところへコメントは書けませんが、今から応援に行きますね。




[ 2008/08/10 08:13 ] 父の生い立ち | TB(0) | CM(11)
プロフィール

Author:ノラドラ
ようこそ、3世代5人家族の「ノラ家」へ。
両親around70、娘around40、そして新・中学1年生のマーくんです。
いいかげんに解散しないといけない家族構成はいつまで続くのか?!(こんなはずじゃなかったんだけど。)。
一家の次女(ドラ)が、なんてことのない日常を楽しみながら書いていきます。気軽にコメントしてくださいね。


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